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メッセージ from フォーラム

儲からない映画を上映する映画館をつくるなら、これはライフワークになる!

2023.4.5

「男は一生かかって何ごとかを成さねばならない」というのが父の口癖でした。それは、戦争に振り回された残念な青春時代を送った父が息子たちへの期待を込めた、生きている時からの「遺言」だったのです。

 

 父は大正10年に南沼原村沼木の農家の次男に生まれました。高等小学校を卒業して東京に出ました。働きながら夜間中学に入ろうとしたら、兄が招集されたので、働き手として帰郷を命じられました。昭和16年、今度は自分が20歳になり兵隊検査を受けて大東亜戦争に参加したのです。この戦争が終わるまで帰れないからと、下士官を目指すコースを選択し、中国語の教育を受け、軽機関銃隊の分隊長として中国戦線で終戦を迎えたようです。

 向学心はまだまだあったようなのですが、引き上げてきたらすぐに婿に出されました。日常的に酒を飲む人ではなかったのですが地区の寄り合いなどがあると深酒して、「男は一生かかって何ごとかを成さねばならない。だからお前たち三人は全員大学に入れる」と言うのでした。それで私も大学に行くことができました。

 1969年、東大入試が中止された年です。東大を目指した訳ではないのですが、東北大の入試に落ちて山形大学工学部に入りました。工学部は2年生からは米沢です。そして、1972年4月に“米沢映研”を結成しました。第1号会員になったのが、米沢女子短大に入ったばかりの妻でした。運命の出会いでした。

 1972年12月に「七人の侍」を自主上映しました。これが映画館からのクレームで上映中止に追い込まれそうになりました。たった100円の入場料を取ることが“興行”だから許せないというのです。入場料を無料にして、自主的に100円程度のカンパをしていただくということで、事無きを得て上映することができました。そしてこの事件が、私のライフワークを決めることになったのです。

「七人の侍」の上映を差し止めたのは、いつも成人映画ばかり上映している映画館でした。「七人の侍」のような名作映画はなかなか儲からない。成人映画のほうが儲かるから上映するというのです。なら、儲からない映画を上映する映画館をつくり運営するなら、男子一生のライフワークに値する!というのが私の結論です。

 既存の映画館が儲かるか儲からないかの基準で上映作品を決めるなら、私の映画館は、映画ファンにとって価値があるかないかどうかだけで上映する映画館を作ろう!それなら、男子一生のライフワークに値する!映画ファンにとっての天国となるような映画館をつくり運営すると決めたのが24歳の夏です。

 1972年、米沢で映研を作ったことで、一生の伴侶と一生のライフワークを得たのです。

 

 さて、儲からない映画を上映してどうすれば運営できるのか?

 サークルの自主映画のような映画館。

 受付や映写は当番の人が無料奉仕で分担する映画館。平日は夕方から、日曜・祭日のみ朝から上映する映画館なら、ほかの仕事を持っていても運営を分担することができます。まだ“ボランティア”という言葉もない時代に、運営スタッフをボランティアだけで運営する映画館を構想したのです。30人から50人のボランティアスタッフがいれば、我らの儲からない映画館は運営できる!

 建設資金はあとで考えることにして、取りあえず一人でも始められるのはノウハウの勉強です。現実の映画館の仕入れはどうしているのか?これなら一人でも勉強できます。現実の映画館で丁稚見習いすることにしました。

 

 ところが、「男子一生の仕事」を説いた父が大反対でした。工学部を卒業してヤクザの仕事をさせられない!勘当する!というのです。

 私のライフワークはヤクザの仕事ではなく、その先の映画ファンのための映画館にあるのですが、映画館の見習いもステップです。これははずせません。

 父と交渉すると、最低限県外に出て行け!ということで、一番近い県外、仙台で見習い社員をすることにしました。東北劇場という独立系の70mm劇場です。ここに8カ月いて福島県原町市(現・南相馬市)の原町文化劇場の支配人をやらないか?という話になりました。

 そこで原町文化劇場を見に行きました。盆と正月は一般映画を上映するが他の日はほとんど成人映画を上映している典型的な地方都市の映画館です。座席は200席くらいあるのですが、半分くらいはバネが飛び出しています。スクリーンは破れて縫い目があります。映写機はカーボン式なのですが、カーボンを自動で送る機能が壊れていて、ちょっと目を離すと光が消えてしまう不良品でした。

 私は2つの条件を付けました。

 「上映番組をまかせてもらえること。」
 「劇場を直したいから、独立採算で残ったお金で劇場を直すことを承認してもらうこと。」でした。

 

 これがすんなりOKになりました。実は毎年赤字の劇場だったのです。

 1975年10月、原町文化劇場の支配人になりました。翌年4月に結婚しました。

 

2023.4.05

フォーラムシネマネットワーク 会長 長澤裕二

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